昭和25年(1950年)に朝鮮動乱が起こると、日本国内に朝鮮特需をもたらし、さらにGHQの日本の占領政策を一変させます。
これは日本の産業界にも様々な影響を与えたようです。
昭和24年(1949年)に、オートバイの生産および販売に携わる会社により日本小型自動車工業会ができ、多摩川スピードウェイで全日本モーターサイクル選手権を開催するなど、モータースポーツもようやく復興してきます。
翌、昭和25年の第2回大会では、
昭和25年(1950年)7月、ホンダの社員ライダーであった大村美樹雄さんが、多摩川スピードウェイでの戦後2回目の全日本モーターサイクル選手権で優勝します。これが後のサンパウロでのレース、マン島出場宣言へと繋がっていきます。 iom1960.com/origin-of-hond…
— 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年5月31日
1951年(昭和26年)
戦後できたメーカーの一つに、伊藤正さんが創業した丸正自動車があります。
戦前、本田宗一郎さんが独立して創業したアート商会浜松に丁稚として勤めていた伊藤正さん。 戦後、ホンダに対抗するように二輪車の開発に乗り出します。
昭和26年(1951年)3月に、丸正自動車がライラックML号を発売。先進的なシャフトドライブを採用したモデルです。創業者の伊藤正さんはかつて本田宗一郎さんのもとで働いていました。ホンダとは違う物を作りたいという意思の現れだったようです。bike-furusato.net/history/main.p… — 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月3日
アート商会浜松での本田宗一郎さんと伊藤正さんの写真です。 ハーレーのサイドカーを前に。昭和10年頃のようです。
左から2番目本田宗一郎・右から2番目伊藤正(ポケットに手を入れてる) pinterest.com/pin/4677411112… — 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月3日
昭和26年(1951年)10月、ホンダは4サイクルエンジンのドリームE型(146cc)を発売。まだまだ世間では自転車にエンジンを付けるタイプの方が重宝されていたみたいですが、いわゆるオートバイも開発されるようになってきたようですね。showa.mainichi.jp/news/1951/12/p… — 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月3日
1952年(昭和27年)
昭和27年(1952年)1月、プリンス自動車の前身・富士精密工業の「BSバンピー号」を、ブリヂストンの販売網を利用して発売。 minkara.carview.co.jp/smart/userid/9…
— 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月4日
昭和27年(1952年)3月、ホンダが自転車取付用小型エンジンキット「カブF型」を発売。「白いタンクに赤いエンジン」が特徴。 jsae.or.jp/autotech/data/…
— 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月4日
昭和27年(1952年)4月、いよいよスズキが本格参入。鈴木式織機が自転車補助エンジン(バイクモーター)「パワーフリー号」発売。 www1.suzuki.co.jp/motor/history/…
— 二輪文化を伝える会さん (@2rin_tsutaeru) 2013年6月4日
昭和27年(1952年)7月1日、ガソリン統制解除
これまでGHQによりガソリンは統制(配給)されていました。多くは闇ガソリンに頼っていたそうですが、これでガソリンが自由に出回ることになります。
スクーターやオートバイもありましたが、やはり庶民の生活にはバイクモーター(スクーターの三分の一程度の価格だったそうです)が主流だったようです。
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