昭和29年、朝鮮特需が終わって景気も後退。
バイクモーター(自転車用補助エンジン)を作っていた小さな町工場のようなメーカーでは倒産するところも多かったようです。
そんな中、ホンダ(とメグロ)は世界へ飛び出し、さらに、本田宗一郎さんはマン島に照準を合わせます。
そしてヤマハが参入。
1954年3月にブラジル・サンパウロ市制400年記念国際オートレースに、ホンダとメグロが挑戦。日本メーカーによる初の海外国際レース。ホンダは125ccクラスに大村美樹雄さんが、メグロは350ccクラスに田代勝弘さんが出場。がしかし.. http://t.co/qB6Rv7mvQG
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 15, 2013
1954年(昭和29年)3月、サンパウロのレースで世界との差を感じた本田宗一郎さん。海外メーカーのマシンの写真を見ると俄然闘志に火が付き、ついに「マン島出場宣言」。 http://t.co/FQu626Zjgl
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 15, 2013
昭和29年3月、日本楽器がバイクの製造に動き出します。ドイツDKW社のRT125をモデルして開発されたのが「ヤマハYA-1」(2サイクル 125cc)。愛称赤トンボ。 この年の10月に発表、翌年2月に発売となります。 http://t.co/PS8Pb5GIXb
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 15, 2013
ここでヤマハが参入。
YA-1の発売、レース参戦は翌年の昭和30年から。
昭和29年7月に第2回富士登山レースが開催。原付(4st90cc、2st60cc)クラスは山下林作さんのスズキ・コレダが、軽二輪車(250cc)クラスは中島信義さんの駆るモナークが優勝!モナーク知ってます? http://t.co/826woOhM28
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 16, 2013
スズキは、3月に発売された4サイクル90ccのコレダ号で第2回富士登山レースでクラス優勝(バイクモータークラス)。
軽二輪(250cc)クラスで優勝したのは、メグロから独立したモナーク。
ライダーは中島信義さん(後に中島モータースを設立)。
昭和29年の第2回富士登山レースで優勝した中島信義さんが乗ったモナーク。モナークモータは、メグロの社長村田延治さんの娘婿・村田不二夫さんがオートレース用のレーシングマシンを作りたくてメグロから独立して作ったメーカー。 http://t.co/HYPsfVC9a3
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 16, 2013
景気後退だけでなく、オート三輪の普及もすすみ、だんだん国内の二輪車需要が落ちてきた頃でもありました。
メーカー各社は輸出に活路を見いだすためにも、海外メーカーとの性能差を埋める必要があり、性能向上の機会としてのレースが必要とされたようです。
そして、
国内でもマン島TTレースのようなレースが開催できないものか?
そんな動きに繋がっていったのですね。
← [歴史を追う8] 昭和28年の名古屋TTレースと富士登山レース
[歴史を追う10] →