先日見る機会に恵まれた別冊モーターサイクリスト創刊号に、モーターサイクリストの創設者でもある酒井文人さんと当時のライダーでもあった望月修さんが書いた浅間火山レースに関しての特集記事がありました。
昭和30年の第1回浅間高原レースの開催までのいきさつなど、地元の名士であり開催に尽力された星野温泉の星野嘉助さん(三代目)に取材したものでした。
妙義山ストーリー
上毛三山のひとつ、群馬・妙義山を個人所有していたのが柴垣はるさん。子供のいないはるさんは、親交のあった三代目星野嘉助さんに、山を今後どうするかを相談、嘉助さんの提案で群馬県に寄附することになりました。
嘉助さんは群馬県庁に何度も足を運び、昭和29年に妙義山は群馬県有となったのです。
群馬県の協力
そんな一件から一年。第1回浅間高原レース(群馬県と長野県の公道を使用予定)を開催するために準備をすすめていたところ、長野県側が使うことができなくなりました。相談を受けた星野嘉助さんは、群馬県の公道と県の所有地である浅間牧場の施設道路を使用するために群馬県知事と折衝。妙義山のこともあり、群馬県から全面協力を取り付けたということです。
妙義山ストーリーについては、こちらのブログも。
浅間への小旅行(1) – つわものどもの夢のあと
(浅間も世界GPも走ったホンダの社員ライダー福田貞夫さんの息子さんのブログです)
上記のブログの記事中、大久保力さんの本の引用に出てくる星野嘉苗さん(元 軽井沢二輪資料館館長・故人)は三代目星野嘉助さんの甥。
当時まだ少年だった嘉苗さんは、嘉助さんの影響で二輪車にのめり込んだとのことです。
星野嘉助さんについて調べようとしたら、先月18日に亡くなったという訃報記事が。
(ご存命だったのかと一瞬思ったのですが、亡くなったのは星野リゾート前会長の四代目嘉助さん)
そして4月20日は星野嘉苗さんの命日であり、第1回浅間高原レースから46年後に世界チャンピオンに輝いた加藤大治郎選手の命日でもありました。
合掌。