二輪文化ブログ
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浅間テストコース跡を訪ねて

7月と9月の2度にわたり、群馬県の浅間山麓にあった浅間高原自動車テストコース跡を訪ねてきました。

いろいろと書きたいこと、紹介したいことはたくさんあるのですが、とんでもない量と時間がかかりそうなので、ざっくりと2回分をまとめて。

「忠さん」からのリクエスト

昭和30年に北軽井沢周辺の公道を使った通称「浅間高原レース」が開かれました。
その2年後に浅間牧場の敷地内に「浅間高原自動車テストコース」(ダートコース)が建設され、第2回全日本オートバイ耐久レース(通称、浅間火山レース)」が開催されました。

今回は、ツーリングでこの地を訪れたSP忠男の鈴木忠男さん(忠さん)からの「もう一度浅間を走ってみたい」というリクエストから始まりました。

忠さんは、少年時代にここにレースを見にきたことがあり、伊藤史朗選手や野口種晴選手のかっこよさに憧れていました。
その後、ヤマハファクトリーに入り、テストで何度かこのコースを走ったことがあるそうです。

それを聞いた(私とは古くからのレース仲間である)高野博文さんが企画し、嬬恋村や浅間牧場と交渉して、特別に取り計らっていただき実現したもので、二輪文化を伝える会もそれに便乗させてもらう形で参加しました。

浅間牧場内を探索

浅間牧場と浅間山と浅間高原自動車テストコース跡

普段は、一般の人は立ち入り禁止の浅間牧場。その牧場内をコースの痕跡を求めて散策させていただきました。

7月の1回目だけでは飽き足らず、9月に2回目を開催。
浅間牧場の吉田さんにアテンドいただいて、1回目は忠さんと、2回目はお父さんが浅間を走ったというプライベートレーシングの小寺さんと共に牧草地内を探索しました。

7月の訪問時には、自分ではある程度わかっているつもりでしたが、実際は頭の中にコースや景色がインプットしきれていませんでした。

帰宅後、あらためて資料に目を通してみました。
一度行ってみてから見る写真や動画は全然違うものですね。

9月の2回目に向けて、資料を整理し、写真を見返し、チェックポイントを明確にして再チャレンジ。

自然の地形を生かしたコースでもあったので、当時の写真、コース図、現在の航空写真などを見ながら、「ここらへんがヘアピンだ」とか「山下りはここから右に曲がっていったはずだ」などと検証してまわりました。

小説「汚れた英雄」で、トップを独走していた北野晶夫が転倒してしまったのはヘアピンコーナーだったな、などと思いながら。


1971年と2006年の航空写真と重ね合わせた動画を作ってみました。

今も残る当時のコースを走る

そして、当時のコースの西側(大森カーブ、小森カーブと呼ばれたあたり)は今でも走ることができるので、管理する嬬恋村のご厚意で走らせていただくことに。

忠さんをはじめ、いつもお世話になっている荘利光さん、9月はプライペートレーシングみなさんも交えて、60年前に想いを馳せながら、日本のモーターサイクルスポーツの原点の一つであるこの場所を堪能しました。

7月の訪問時、TDR250を持ち込んだ鈴木忠男さんと、DR-Z400SM(ロードタイヤ)の荘利光さんの、今年74歳と70歳のスーパーコンビの走りをどうぞ。

62年前と変わらぬ浅間山

7月は靄っていて浅間山は拝めませんでしたが、9月の時はこれまでで一番綺麗に浅間山を見ることができました。

自分も、ツーリングがてら自走でいった愛車トリッカーで走ってきました!

雑誌にも取り上げていただきました

7月の訪問時の様子は、「モーターサイクリストクラシック」(八重洲出版)、「単車倶楽部」(造形社)に掲載されました。

モーターサイクリストクラシックは、なんと巻頭カラー!

文:高野博文 写真:内藤みさお(オレンジワークス)
単車倶楽部2019年9月号

幾多のエピソードがあるこの時代の二輪史

戦後の復興から、生活の道具として進化・発展した日本のオートバイ。
この浅間でのレースをステップにして、外国車に負けない性能と技術の進歩、そして世界進出、オートバイ大国へと繋がっていくのです。

この「浅間高原自動車テストコース」や「浅間高原レース」「浅間火山レース」「全日本クラブマンロードレース」などなど、それぞれにたくさんのストーリーがあるので、ひとつひとつはまた別項目で取り上げてみたいと思います。


10月19日「二輪文化の日」

この浅間高原自動車テストコースで開かれた「第2回 浅間火山レース」。
1957年(昭和32年)10月19日・20日のことです。

二輪文化を伝える会では、この10月19日を「二輪文化の日」として制定、日本の二輪文化、歴史について考える日にしています。

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