浅間テストコースで浅間火山レースがやっと開催になった翌年の昭和33年(1958年)。
ホンダのマン島出場(昭和34年)に先駆けて、5月にヤマハが初の海外レースに挑戦。
1958年(昭和33年)ヤマハが海外レースに初挑戦。アメリカロサンゼルス沖にあるサンタ・カタリナ島でのカタリナGP。2ストローク2気筒のYDレーサー5台が参戦、うち1台に乗る伊藤史朗さんが観衆の目を釘付けにする走りで6位入賞! http://t.co/V16FOz8nsd
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 26, 2013
貴重な映像。 No.33が伊藤史朗選手。
一方、浅間火山レースはというと、出場メーカー側の都合(レーサー製作・レース参戦経費が負担で足並みが揃わないなど)で早々に中止(翌年に延期)が決定。
それが、アマチュアライダーでレースをやろうという声に発展して、全日本モーターサイクルクラブマン連盟(MCFAJ)が設立され、浅間テストコースでクラブマンレースが開催されることに。
昭和33年は、浅間火山レースの中止を受けて、全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)が設立され、アマチュアのレースとして第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースが浅間コースで開催。台風の大雨の中でのレースだったそうです。 http://t.co/J3kmLvAEIH — 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 27, 2013
そしてこの年は超ロングセラー&超世界的ヒットである、スーパーカブシリーズのC100が発売になった年でもあります。
昭和33年は、全世界で超ロングセラーとなるスーパーカブC100が発売された年です。ホンダの経営危機をも救った名車です。鈴鹿製作所(1960年)もこのスーパーカブの量産のために作られたんですね。 http://t.co/jSOwgMFU0l — 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) June 27, 2013
鈴鹿製作所はスーパーカブの月産3万台に対応すべく作られたんですね。
そして設立から1年余りで月産6万台?
それは会社の危機もどこかへ吹っ飛びます。
1959年(昭和34年)。
まずは3月にMCFAJ主催の第1回全日本クラブマンモトクロスが開催されます。
後にホンダワークス、四輪でも活躍された北野元さん、そして城北ライダースの久保和男さんが活躍し名を馳せた伝説のモトクロス大会です。
昭和34年4月MCFAJ主催の第1回全日本クラブマンモトクロス大会が開催。それまでスクランブルレースと言われてましたが、この時日本で初めてモトクロスと言う名称が使われたそうです。 http://t.co/M6Anu7K8gP — 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) July 1, 2013
そして6月には、昭和29年の宣言通り、ホンダがマン島TTレース出場を果たします。
1959年(昭和34年)は世界への飛躍。1954年のマン島出場宣言から5年。ついにホンダがマン島TTレースに初挑戦。谷口尚己さんが6位に入賞し初ポイント獲得とともに、4台が完走してチーム賞を獲得。輝かしい一歩を記しました。 http://t.co/sSGhyKZQhY
— 二輪文化を伝える会 (@2rin_tsutaeru) July 4, 2013
浅間のレースは、アマチュアのレースであるMCFAJの第2回クラブマンレースとメーカー対抗の第3回浅間火山レースが同時開催となります。(土曜にクラブマン、日曜にメーカー対抗)。
このレースでは、125ccクラスで北野元さんがクラブマンレースに勝ち、招待選手として翌日のメーカー対抗レースに出場したら、そちらでもワークスチームを打ち負かしてしまいました。
そしてもうひとり、高橋国光さんも、クラブマンレース350ccクラスで優勝、招待選手として出場した浅間火山レースでも伊藤史朗さんに次ぐ2位に入る健闘。
のちにふたりともホンダのワークスライダーとして世界で活躍することになります。
そして、この伝説の浅間火山レースは、このレースを最後に開催されなくなってしまいます。
マン島をはじめとして世界へ進出するには、舗装路でのレースでないと、ということです。
メーカーの生き残り競争が激しく、浅間のコースを舗装するだけの予算をメーカー各社で負担することができなくなってしまったようです。
そんな中、ホンダの後を追うように、1960年にはスズキがマン島へ。1961年にはヤマハが世界グランプリへとチャレンジします。
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