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[歴史を追う11] 浅間時代後半 世界へ

浅間テストコースで浅間火山レースがやっと開催になった翌年の昭和33年(1958年)。

ホンダのマン島出場(昭和34年)に先駆けて、5月にヤマハが初の海外レースに挑戦。

貴重な映像。 No.33が伊藤史朗選手。

一方、浅間火山レースはというと、出場メーカー側の都合(レーサー製作・レース参戦経費が負担で足並みが揃わないなど)で早々に中止(翌年に延期)が決定。

それが、アマチュアライダーでレースをやろうという声に発展して、全日本モーターサイクルクラブマン連盟(MCFAJ)が設立され、浅間テストコースでクラブマンレースが開催されることに。

そしてこの年は超ロングセラー&超世界的ヒットである、スーパーカブシリーズのC100が発売になった年でもあります。

鈴鹿製作所はスーパーカブの月産3万台に対応すべく作られたんですね。

そして設立から1年余りで月産6万台?
それは会社の危機もどこかへ吹っ飛びます。


1959年(昭和34年)。

まずは3月にMCFAJ主催の第1回全日本クラブマンモトクロスが開催されます。

後にホンダワークス、四輪でも活躍された北野元さん、そして城北ライダースの久保和男さんが活躍し名を馳せた伝説のモトクロス大会です。

そして6月には、昭和29年の宣言通り、ホンダがマン島TTレース出場を果たします。

浅間のレースは、アマチュアのレースであるMCFAJの第2回クラブマンレースとメーカー対抗の第3回浅間火山レースが同時開催となります。(土曜にクラブマン、日曜にメーカー対抗)。

このレースでは、125ccクラスで北野元さんがクラブマンレースに勝ち、招待選手として翌日のメーカー対抗レースに出場したら、そちらでもワークスチームを打ち負かしてしまいました。
そしてもうひとり、高橋国光さんも、クラブマンレース350ccクラスで優勝、招待選手として出場した浅間火山レースでも伊藤史朗さんに次ぐ2位に入る健闘。
のちにふたりともホンダのワークスライダーとして世界で活躍することになります。

そして、この伝説の浅間火山レースは、このレースを最後に開催されなくなってしまいます。

マン島をはじめとして世界へ進出するには、舗装路でのレースでないと、ということです。
メーカーの生き残り競争が激しく、浅間のコースを舗装するだけの予算をメーカー各社で負担することができなくなってしまったようです。

そんな中、ホンダの後を追うように、1960年にはスズキがマン島へ。1961年にはヤマハが世界グランプリへとチャレンジします。



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