1955年(昭和30年)11月 第1回浅間高原レース開催
浅間高原レースの正式名は、第1回全日本オートバイ耐久ロードレース
1955年(昭和30年)本格的なロードレースの開催を目指して、マン島TTレースを参考に計画されたのがこの全日本オートバイ耐久ロードレース。
場所は観光シーズンが終わった浅間高原が選ばれました。
後に浅間高原自動車テストコースで行われたレースが「浅間火山レース」と呼ばれたのに対し、このレースは「浅間高原レース」と呼ばれています。
- 全日本オートバイ耐久ロードレース – Wikipedia
当初は10月26、27日開催予定だったが…
写真の開催要項(規則書)の日付を見てもわかるように、当初は10月26日(水)27日(木)の開催予定でした。
ところが諸般の事情により、開催が11月5日(土)、6日(日)に延期に。
これは、レース直前になって長野県側の道路(公道)の使用ができなくなり、急遽群馬県内だけのコース設定に変更を余儀なくされたことによるようです。
そして実際にレースで使われたコースは、浅間牧場から県境で右に折れ、「X地点」と言われる浅間牧場入り口交差点を左折して鬼押出方面へ、というルートになりました。
- 全日本オートバイ耐久ロードレース – Wikipedia
1日目(5日)記念すべきオープニングレース(250cc)の優勝は、弱冠16歳の伊藤史朗選手
第1日目の第1レースは、ライトウエイト(250cc)クラス。
戦前の予想は、ホンダ・ドリーム、モナーク、DSKが有力されていながら、優勝したのはライラックを駆る伊藤史朗選手という番狂わせ。
しかも16歳の少年ということで大きな話題に。
2位はホンダドリームの谷口尚己選手、3位はポインター(新明和興業)の田村三夫選手でした。
- 伊藤史朗 – 人物伝
- 1955年・第1回浅間高原レース・本文 |レース成績 |出場マシンの諸元 |写真集 – 日本モーターサイクルレースの夜明け
125ccクラスは発売されたばかりのヤマハYA-1が大活躍
ウルトラライトウェイト(125cc)クラスの優勝は、ヤマハYA-1を駆る日吉昇選手。2位小長谷茂選手、3位望月修選手、4位岡田輝夫選手とYA-1が1〜4位を独占。
(4位はのちにスズキの山下林作選手が繰り上がり)
- 1955年・第1回浅間高原レース・本文 |レース成績 |出場マシンの諸元 |写真集 – 日本モーターサイクルレースの夜明け
- 全日本オートバイ耐久ロードレース – Wikipedia
北軽井沢のスタート地点に建つ「発祥の地碑」「スタート地点の碑」
- 浅間高原レース・公道コース – 歴史探訪
出典・参考
- 全日本オートバイ耐久ロードレース – Wikipedia
- 1955年(昭和30年)浅間高原レース (スタート地点での写真) – つわものどもの夢のあと
- 浅間への小旅行(1) (浅間での開催秘話) – つわものどもの夢のあと