今年、鈴鹿サーキットは開場50周年。
1962年(昭和37年)の9月にオープンしたわけです。
浅間から鈴鹿サーキットオープンまで、どんな流れだったかをおさらいしてみます。
浅間高原自動車テストコースができて第2回浅間火山レースが開催されたのは1957年(昭和32年)。その後クラブマンレースも含め、1959年(昭和34年)まで浅間のコースでレースが開催されます。
画像は「浅間火山レース2 – 日本のモータースポーツ黎明期物語 砂子義一伝説」より |
浅間でのレースの成果でオートバイの性能も上がる反面、技術競争や販売競争に敗れたメーカーがだんだんと二輪車事業から撤退・廃業することに。
そして早くも1960年(昭和35年)にはコースの安全性や、コースを舗装するにはお金がかかりすぎる等の理由で、浅間高原テストコースでのレースの開催はされなくなってしまうのです。
すでに同じ時期、ホンダ、スズキ、ヤマハの各社は、マン島TTレースをはじめ世界グランプリに出場するようになっていて、日本にも舗装コースの必要性が求められてきました。
そこでホンダが鈴鹿に国際レーシングコースの建設を計画。1961年(昭和36年)に着工、1962年(昭和37年)9月に竣工、11月にはこけら落としとして第1回全日本ロードレース大会が開催されたのでした。
画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から |
ここで、速遅速遅密疎密疎(はおはおみそみそ)の資料-5 メーカー別生産台数を見てみると、この1962年前後に、宮田製作所・丸正自動車・メグロ(カワサキに吸収)・平野製作所・トーハツ・山口自転車などが撤退しています。
ところで、カワサキの名があまり表に出て来ません。
1953年(昭和28年)に、当時の川崎航空機が明発工業を設立し、エンジンを供給して二輪車製造(メイハツ)には関わって来ましたが、「カワサキ」の名が出てくるのは、1961年にメイハツとメグロ販売を吸収してカワサキ自動車販売ができてからということでしょうか。(Team Green 平井稔男元監督のブログより)
ここからのカワサキの詳しい内部の動き(!)は、川崎重工OBでありNPO法人TheGoodTimes理事長の古谷錬太郎さんが、ブログ「雑感日記」の中で「二輪文化を伝える会」のために纏めてくださった「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第1回)」「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第2回)」でいろいろ知ることができますよ!