二輪文化ブログ
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”お化け煙突”下の二輪メーカー

ミナト製作所/ヘルス自動車とお化け煙突と多田健蔵と

”お化け煙突”下の二輪メーカー

「コレクターズパラダイス 5」
別冊モーターサイクリスト1994年8月号臨時増刊(八重洲出版)の記事から。

リヤカーの制作から二輪車事業へ

東京都荒川区尾竹橋の袂にあった「ミナト製作所 /ヘルス自動車」。

渡部湊社長のもと、主に車体メーカーとして二輪車産業に参入し、トーハツなどにフレームを供給したりしていたが、完成車メーカーへと進路を定め、自社でエンジンも開発製造することになります。

完成車メーカーとして「ヘルス自動車」を設立した際に、研究部員として多田健蔵が参画しています。

完成車メーカーとして「ニューポート」「セリウス」を製造販売し、小さな町工場としては大健闘といえる台数を記録。

二輪車に親しむ施設として「尾久オートセンター」を作り、それはのちにオートレースの選手育成にも繋がっていきました。

生産台数は増えるものの…

しかし、好調な売れ行きの反面、経営や営業で対応が遅れ、他の零細メーカー同様に苦境に追い込まれ1954年に倒産。渡部湊社長は退任し、代理店組織の主導で再建。社名をヘルス自動車工業とし、車名は「エムロ」に改めることになります。

その後、神武景気もあって順調に「エムロ」の生産を続けていましたが、ライバル会社の量産体制にも押され1959年半ばから経営は悪化。資金援助を受けて三笠技研工業として再スタートするものの長くは続かず会社は解散することになります。


お化け煙突

余談になりますが、「お化け煙突」とは、東京・足立区にあった火力発電所の4本の煙突。隅田川を挟んでミナト製作所/ヘルス自動車の工場の向かい側にありました。

当時は下町のランドマークとして庶民に親しまれており、あのこち亀でも両さんの少年時代の思い出話の回に登場しています。

お化け煙突は、今もそのモニュメントが残されています。
→ おばけ煙突の思い出をたどる~消えた千住の煙突~ : さんたつ


この記事には、昭和の戦後復興期にたくさん生まれたバイクメーカーのひとつの栄枯盛衰のストーリーが綴られています。

このような歴史の上に現在が成り立っているわけですが、その後に語られる歴史の中に埋もれてしまうという現実を踏まえて、今後も二輪文化を伝える活動をしていきたいと思います。

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