
二輪文化を伝える会の象徴的存在としている「多田健蔵」。
マン島TTレースを走ったのは、昭和5年、多田健蔵41歳の時のことでした。
それから遡ること23年。
マン島TTレースが始まった1907年(明治40年)に、18歳の多田健蔵は自転車選手としてその名を広めます。
自転車選手として名を馳せる
明治40年6月30日、横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の自転車長距離競争が行われ、当時18歳の多田健蔵が優勝。
この競走は、横浜を起点に、東京、八王子、小田原、三崎の4区間を往復するもので(総距離340km)、多田健蔵は16時間53分で完走し優勝。いちやく自転車選手として名を轟かせたのでした。
この時の自転車はアメリカのピアス号で、それを輸入していた石川商会(のちの丸石商会)の選手として出場。
出場16選手中、完走したのはわずか4人のみ。
その鉄人ぶりは、後にマン島TTレースを4時間かけて走り切ることにもつながっていくのでした。
下の画像は、結果を伝える新聞と、当時を語る本人の談話記事。


多田健蔵をもっと知ってもらいたい
明治22年、神奈川県秦野で生まれた多田健蔵。
決してボンボンだったわけではなく、まさに自力で自転車選手として、オートバイ選手として名を上げていきます。
日本橋で多田健蔵商店を営み、自転車やオートバイの販売も手掛けていました。
四輪でのレースにも出場しており、昭和11年には、新設された多摩川スピードウェイのレースでもベントレーを走らせています。
戦後になっても、オートバイ業界はもとより、自転車業界でも、その発展や後進の指導に努められていました。
ということで、「多田健蔵 伝」として、まずは年表を作りつつ、その功績やさまざまなエピソードを調査し整理してお伝えしていこうと考えています。