この夏、40回記念大会を迎えた鈴鹿8耐。
その第1回から連続出場を続けるのはプライベーターの雄・ヨシムラだけです。
富樫ヨーコさんの「POP吉村の伝説」、手元にあるのですが、拾い読みしかしていなかったので、改めて読み直してみました。
ひとまず上巻(文庫版)を読みましたが、やはり出来事を年表で追いかけるより、ちゃんとストーリーになっている方が脳ミソに沁みわたりますね。
飛行機と関わった予科練時代、戦後のオートバイチューニングとの出会い、ゴッドハンドが日本全国そして世界中に名を轟かせていく。
そして、二輪文化を伝える会として重要視している、POPこと吉村秀雄さんと彼に関わる「人々のストーリー」。
ライダーとして見出された高武富久美さん、和田正宏(将宏)さん。ホンダとのパイプ役だった木村昌夫さん、メカニックとして濃密な時を過ごした松浦賢さん。
もちろん身内でもある、直江夫人、娘の南海子さん、由美子さん、不二雄現社長。それに森脇護さん、加藤昇平さん……。
その中でも特に触れたいのが、2輪と4輪の両方でヨシムラと関わりのあった堀 雄登吉さんです。
ファクトリーを相手に戦った 堀 雄登吉(ほり おときち)
吉村さんに関わる人たちの中で、割とよくお名前は聞くのに資料が少ないのが、東京オトキチクラブの代表を務めていた堀 雄登吉(ほり おときち)さん。
この本には、その堀さんとヨシムラとの関わりが、そしてファクトリー相手に執念を燃やすプライベーターとしての姿が描かれています。
ブリヂストンのモトクロスライダーとして活躍後にロードレースに転向。
2サイクル勢が圧倒的に速かった50ccクラスに、ヨシムラに頼み込んでチューニングしてもらったホンダCR110で、1966年MCFAJのチャンピオンを全勝で獲得。 翌67年はブリヂストンで90ccクラスチャンピオン、68年にはCR110の車体にカワサキの125ccエンジンを積んでチャンピオンを獲得。
69年から4輪のレースに出場するようになり、再びヨシムラチューンのマシンに乗るようになります。
軽自動車のエンジンを使ったフォーミュラクラスがプライベーターの間で盛り上がってきて、JAFの公認になった途端にファクトリー(メーカーチーム)が参入。
プライベーターの人たちはそんなファクトリーの打倒に燃えていたそうです。
その筆頭が堀雄登吉さん。ヨシムラチューンのマシンに乗り、富士スピードウェイの30度バンクでは「須走落とし」というテクニックを駆使し、ファクトリー勢のトラブルもあって優勝したレースでは、POPも他のプライベーターもその執念の勝利に涙したそうです。
目指すはモーターパラダイス・オートルックツクバガレージ
筑波サーキットの前に「オートルック ツクバガレージ」があります。
私も筑波サーキットを走リ始めたころは、よくこのお店でレース用のオイルやゼッケンシールや買っていました。
このオートルックツクバガレージ(ATG)こそが堀雄登吉さんによる後進の育成の場でした。 元F1ドライバーの片山右京氏もこのオートルックガレージの出身です。
ATGのホームページで、堀さんのレース人生が書かれた本「走れオトキチ」を読むことができます。
「筑波サーキットに”モーターパラダイス”をつくること」が夢と語る堀さん。
最後にその序文の一部をご紹介しておきます。
ぜひ続きを読んでみてください。
何かに賭けること、その素晴らしさは、やってみなければわからない。
無我夢中で通り過ぎてきてはじめてわかるものなのかもしれない。
今、若さの真っ只中にいて、自分の道を選びあぐねている人たちに
“なんでもいいから自分の好きなものに賭けてみろ”というのは、
すこし単純すぎるアドバイスかもしれない。ぼく自身も人生の岐路に立ったとき、悩みながら歩いてきた。
それが今振り返って見て、一筋の道に見えるだけなのかもしれない。しかし、少なくとも常に燃えて生きてきたつもりだ。
それも好きだからこそ燃えることができたのだ。ゴールの見えないスタートに立っている人たちよ、
走ることの不安にかられている人たちよ、
ぼくに合図をさせてもらえないだろうか、今走れ出せと。青春を疾走する若者になれと、
スタートの旗を打ち振りたいのだ。(「走れ!オトキチ」堀 雄登吉)
- オートルック ツクバガレージ
- 堀 雄登吉 – 二輪文化を伝える会:人物伝
- ヨシムラ ジャパン