マン島TTレース:ホンダの初挑戦から58年

今年もマン島TTレースの時期になりました。

今年は、二輪文化ラジオに何度もゲストできていただいた山中正之選手が、いよいよTTレースにデビュー(SuperSportクラス)。
無事に、そして良いラップを刻んでくれることを願っています。

さて、そのマン島TTレースに日本人が初めて参加したのは、昭和5年(1930年)の多田健蔵さんでした。
次の挑戦はそれから実に29年のこと。

1959年(昭和34年)6月3日。

ホンダ選手は、初挑戦のTTレース(この年の125ccクラスは、マウンテンコースではなくクリプスコースで、一斉スタートでした)で、谷口尚己選手が6位入賞(世界選手権日本人初ポイント獲得)、鈴木義一選手が7位、田中楨助選手が8位、鈴木淳三選手が11位となり、見事チーム賞も受賞しました。

この年以降、ホンダの快進撃は続くので、この初挑戦もまた特別な意味を持って語り継がれています。

レジェンドライダー谷口尚己さんのアルバムから当時の写真を、既出のものも含めてご紹介します。

この年の125ccクラスはマウンテンコースではなくクリプスコースで一斉スタート
左から(敬称略)、鈴木淳三、鈴木義一、河島喜好、谷口尚己、田中楨助、ビル・ハント、関口久一、廣田俊二

 


谷口尚己さんのアルバムから

1959年(昭和34年)にホンダが初めてマン島TTレースに出場した時のライダーであり、同時に初出場で6位入賞、ロードレース世界選手権で初めてポイントを獲得した日本人ライダーでもある谷口尚己(たにぐちなおみ)さん。

その谷口さんから、貴重な当時の写真や資料をまとめたアルバムを見せていただいたので、こちらで随時紹介していきます。
(ホームページへの掲載は許可をいただいております)

たくさんの写真がありますので、順次掲載していきます。

またブログでのご紹介時は、年代が前後すると思いますがご了承ください。

1959年マン島TTレース初出場

1959年4月、羽田空港よりB.O.A.C.の最新型コメット機で出発。

左から、羽田を発つ、鈴木義一さん、鈴木淳三さん、谷口尚己さん、田中楨助さん。
左から、鈴木義一さん、鈴木淳三さん、谷口尚己さん、田中楨助さん。

B.O.A.C.とは英国海外航空のことで、当時のイギリス国営航空会社。今のブリティッシュ・エアウェイズの前身。(→ウィキペディア:英国海外航空
ついでに、最新型コメット機とは、デ・ハビランド社のコメットMk.IVでしょうか。(→ウィキペディア:デ・ハビランド_DH.106_コメット

今と違って、海外に行くのもまだまだ大変な時期ですね。

次は、お見送りする側。

TTレース初出場 羽田空港見送り 本田社長、藤沢専務、工藤所長
TTレース初出場 羽田空港見送り 本田社長、藤沢専務、工藤所長

出発は4月、レースは6月3日。
つまり、およそ1ヶ月以上前から現地入りして、下見と練習をしていたそうです。

マン島TT初出場までのエピソードは、同行したマネージャー飯田佳孝さんのインタビュー記事にも詳しく紹介されています。(→日本モーターサイクルレースの夜明け

運命の日:1959年6月3日 快晴

この年のTTレースはマウンテンコースではなく、クリプスコースで行われました。

また、レースは2台ずつのタイムアタック方式ではなく一斉スタートでした。

125cc級スタート(快晴)1959年(昭和34年)6月3日 PM1:00
125cc級スタート(快晴)1959年(昭和34年)6月3日 PM1:00
ブランディッシュコーナーでの力走
ブランディッシュコーナーでの力走

ブランディッシュコーナーとはコースのどのあたりか調べたところ、クレッグニーバー(よく写真で見るコーナーです)の次の左コーナー。

写真は右コーナーなので、ふと疑問に思い、さらに調べてみると…。

この区間はマウンテンコースとクリプスコースで共用する部分なのですが、クリプスコースで走る時は逆向きに走ることになるんですね。(→クリプスコース・コース図

よって右コーナーで正解というわけです。


写真はまだまだたくさんあります。
全部で何回に分けて掲載することになるか予測がつきませんが、数枚ごとにまとめて記事にしていく予定です。

次回をお楽しみに。


浅間高原レースから60年・・・3

2015年に開催から60年を数えた浅間高原レース(昭和30年11月開催)。

当時の写真を、「浅間高原レースから60年・・・1」「浅間高原レースから60年・・・2」とアップしてきましたが、今回はその3です。

写真はすべてホンダワークスライダーとしてマン島TTレース初挑戦で6位入賞を果たした谷口尚己さんの所蔵品です。

125ccクラス:No.104は高橋邦義選手(ホンダ)。後ろのNo.3は野口種晴選手(ヤマハ)
125ccクラス:No.104は高橋邦義選手(ホンダ)。後ろのNo.3は野口種晴選手(ヤマハ)
同じく高橋邦義選手。リアフェンダーに書かれた文字が見えますか?
同じく高橋邦義選手。リアフェンダーに書かれた文字が見えますか?

この高橋邦義さん、最後にエンジントラブルで2.5kmを押してゴールしたらしいです。

そしてリアフェンダーに書かれている文字は「ベンリイ」でした。

125ccクラスNo.20諏訪部昌志選手(ホンダ)
125ccクラスNo.20諏訪部昌志選手(ホンダ)
250ccクラス2位のトロフィーを持つ谷口尚己選手
250ccクラス2位のトロフィーを持つ谷口尚己選手
トロフィーの前でカップを持つホンダスピードクラブの面々。白子工場社長室前にて。
トロフィーの前でカップを持つホンダスピードクラブの面々。白子工場社長室前にて。写真裏に谷口さん直筆のメモ

この第1回の浅間高原レースのリザルトは、「日本モーターサイクルレースの夜明け」で見られます。

一番下の写真の裏には谷口尚己さん直筆のメモが貼ってありました。

「第一回浅間高原レース(1955年)白子工場社長室前にて」そして

「佐藤市郎 鈴木淳三 高橋邦良(義) 鈴木義一 大村美樹男(雄) 中村武夫 谷口尚己」

350ccクラス優勝の大村美樹雄さんのカップはひとまわり大きいですね。

マン島TTレースを模範に企画されたこの浅間でのレース。

一般公道を使ってのレースではありましたが、舗装路ではなく火山灰に覆われたダートコースでした。

さらに、ところどころ溶岩がむき出しになっていて、なかなかのスクランブルレース具合だったようです。

谷口さんも3度転倒してブレーキが効かなくなり、ゴール後に止まりきれずに北軽井沢郵便局にマシンごと飛び込んでしまった、なんていうエピソードも聞かせていただきました。


昭和30年代前半の浅間時代。

戦後の荒廃から復興へ、激化する競争と淘汰、その後の劇的なまでの高度経済成長へと、昭和史と照らしても激しくそしてエネルギッシュな時代でした。

それから60年。

これからも浅間時代の資料を紐解いて、随時アップしていきたいと思います。

最後に昭和30年当時の日本の道路事情の映像をどうぞ。