1964年のマン島TTレース50ccクラス

一つ前のエントリー「1963年スズキ世界GP・伊藤光夫さんマン島TT優勝の記録映像」のつづき。

1964年の世界GP第5戦イギリス・マン島TTレース50ccクラスの決勝のカラー映像です。

スズキとホンダ、クライドラーの他にトーハツも参戦してますね。
(正直クライドラーというメーカーについてほとんど知らない…)

これも当時のSUZUKIのエンジニア、中野広之さんの「1964年世界選手権レース」(日本モーターサイクルレースの夜明け)とあわせてどうぞ。

優勝はスズキのアンダーソン。予選トップの#18伊藤光夫さんはマシン不調で5位、連覇ならず。#7森下勲さんが3位。
Hondaの#18谷口尚己さんが6位、Suzukiの#2越野晴雄さんは3位につけていながら野ネズミを避け損なって転倒リタイヤ。


東京発動機・トーハツの歴史

1955年(昭和30年)にオートバイの国内トップシェアを誇っていたのは東京発動機(トーハツ)でした。

東京発動機は、現在トーハツ株式会社となり、消防ポンプと船外機などを製造するメーカーさんです。
そのホームページ内に「トーハツの歩み Since 1922」という特設ページがあったので内容をまとめてみました。

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1922年(大正11年)にエンジン研究者の高田益三さんと彼をサポートする武井銀次さんが出会い、前身の高田モーター研究所が設立されたところから始まります。

発動機付き揚水ポンプ、発電機、船外機などを製作し、やがて時代とともに軍需工場として成長します。

戦後、可搬消防ポンプを開発、バイク用のエンジンを作ることで再興。
1950年(昭和25年)には「トーハツ号」が登場します。

そして1955年(昭和30年)には、125ccが主流の第2次オートバイブームもあり、「PK-55型」(125cc)が好調で国内トップメーカーとなります。

ところが1957年(昭和32年)に入ると2輪車の販売のかげりにより急速な不振に陥ります。

ロードスポーツ車への変化に遅れを取ったのも原因のひとつということで、巻き返しを図るべく、1960年(昭和35年)に50ccロードスポーツ車ランペットCAを発売。翌年にはさらにスポーティなCA2を発売し、各地のスクランブルレースなどクラブマンレースで大活躍します。

画像は「トーハツの歩み」から

また、125ccクラスではトーハツ最初の2気筒エンジンを積んだトーハツスポーツLD3が発売され、1962年には、市販レーサーとしてトーハツスクランブラーTR250(2気筒250cc)、ランペットCR2(ランペットスポーツをレース仕様にチューニング)を発表。

これらの1960年から連続的に発表されたバイクの評価は非常に高かったのですが、悪化していた経営状態を建直すことはできずに、1964年(昭和39年)に倒産、会社更生法の適用となります。

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これによりトーハツの二輪車の生産は中止されることになるのでした。

画像は「私設『北野晶夫の世界』」から

レース関係も含めて、こちらのサイトにすごくよくまとめられてました。(→私設「北野晶夫の世界」:東京発動機

(追記)
こちらにはトーハツの各車種を中心にまとめられています。(→栄光のモーターサイクル列伝:トーハツ、ブリヂストン


昭和37年 鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーと言えば…

鈴鹿サーキットがオープンしたのは1962年(昭和37年)。

一時は150社を超える数が存在したと言われる日本のバイクメーカーですが、激しい生き残り競争の末、この頃には10社程度に淘汰されていたようです。

画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から

鈴鹿サーキットのこけら落としとなった第1回全日本ロードレース大会。
大久保力さんの「サーキット燦々」(三栄書房)によると、

1950年頃には約70のメーカーが存在したが、スズカ完成の1962年には10社以下に減り、レース参加メーカーはホンダ、ヤマハ、スズキ、トーハツの四社、他は外車所有の個人や輸入元である。

とあります。

鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーといえば、ホンダ、ヤマハ、スズキと、東京発動機・トーハツだったのですね。
実際トーハツは、1955年頃は国内シェアNo.1だったとのことです。

カワサキが本格的にレースに関わるのはこの後ということですね。
そしてトーハツは、このすぐ後(1964年2月)には倒産、会社更生法の適用という事態になってしまいます。(→Wikipedia