2018年:ダンロップが空気入りタイヤを実用化して130年

2018年の「区切りの年」特集。

今年2018年から遡ること130年の1888年。

日本では明治21年。
ヤマハの創業者、山葉寅楠がオルガンの製造に成功した年(ヤマハのホームページでは1887年となっていますね。だいたいその頃ということで…)でもあります。

その1888年、スコットランドでは、ジョン・ボイド・ダンロップが、世界初の実用的空気入りタイヤを開発しました。(→ダンロップヒストリー)

自転車用からスタートし、自動車用の開発へと拡大していきますが、1909年(明治42年)には日本初のタイヤ工場を作っています。

以来現在に至るまで、タイヤはゴム製空気入りが主流ですから、偉大なる実用化開発なのでありました。

ということで、今年2018年は「ジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを実用化して130年」の年なのです。

DUNLOP空気入りタイヤの実用化から130周年
住友ゴム工業 ニュースリリースより

DUNLOP空気入りタイヤの実用化から130周年 – 住友ゴム

余談ですが…

ダンロップはイギリス発祥の会社ですが、タイヤ部門は切り離され日本の住友ゴムに売却、その後、住友ゴムとグッドイヤーが提携したため、ダンロップブランドのタイヤの製造販売は、北米とヨーロッパはブッドイヤーが、日本を含むんアジアは住友ゴムが担当しているそうです。(ウィキペディアによる

日本ダンロップ(住友ゴム)としては、日本に初めて工場ができた1909年を創業年として2009年を100周年としています。
上の動画はその時のもの。元の映像は1938年の英ダンロップの50周年の際に作られた創業時の再現映像と思われます。

関連リンク


三億円事件と2ストの白バイ

今(2018年)から50年前の1968年(昭和43年)のできごとのひとつ「三億円事件」。

昭和43年(1968年)12月10日、白バイ警官を装った犯人が銀行の現金輸送車を奪い逃走。
巨額な被害額のうえ、数多くの遺留品があるにも関わらず犯人逮捕に至らずに時効を迎え、また一人の怪我人もなく犯行が遂行されたという、「日本犯罪史に名前を残す未解決事件」と言われています。

三億円事件:「一億人の昭和史」(毎日新聞社)より
三億円事件:「一億人の昭和史」(毎日新聞社)より

私は昭和40年生まれですので、事件当時の記憶はまったくありませんが、その後の報道で断片的に事件の概要は頭に残っています。

あえて取り上げたのは、オートバイが犯行に使われたことがあります。
それも重要なアイテムとして。

なぜ偽装白バイはホンダではなくヤマハだったのか

犯行に使われた白バイを装ったバイクはヤマハスポーツ350 R1でした。
排気量350ccの2ストローク車です。

ヤマハスポーツ 350 R1 (ヤマハコミュニケーションプラザの展示より)
ヤマハスポーツ 350 R1 (ヤマハコミュニケーションプラザの展示より)

白バイに関してはあまり知識がないのですが、当時の警視庁の白バイは4ストロークのホンダ車だったのに、なぜ犯人は2ストロークのヤマハ車を偽白バイに使ったのでしょうか。

ちょっとバイクや白バイに詳しい人がいたら、怪しまれそうなものですが…。

今ここで深くは掘り下げませんが、どうやら犯人もホンダのバイクを使うべく一台のホンダ車を盗んだが、そのバイクの調子が悪く、急遽ヤマハのバイクを再度盗んでそれを偽白バイに仕立てたらしい(もちろん犯人が捕まっていないので本当のところはわかりませんが)。

この一点に関してだけでも謎は深いですね。

それまでにも2ストの白バイはあった

SNSでそんな話をしていたところ、かつて東京都荒川区の尾久橋のたもとにあったオートバイメーカー・ミナト製作所(ヘルス自動車)の創業者のご子息の渡部さんから、そのヘルス自動車の後継である三笠技研工業のエムロEL号(2スト500cc)が警視庁の白バイに採用されたことがあるという情報をいただきました。

エムロELポリスタイプ:「国産モーターサイクル戦後史」(八重洲出版)より
エムロELポリスタイプ:「国産モーターサイクル戦後史」(八重洲出版)より

情報元は、そのミナト製作所をルーツに持つ大野フレーム工業所さん(現在もオートレース競技車のフレームを製作)。
ホームページにも当時の白バイ仕様のエムロEL号が。(→大野フレーム工業所 HISTORY

以前にもこちらのヒストリーページは拝見したことがあったのに、白バイにさほど関心がなかったせいか、まったく記憶に留まっておりませんでした。

1957〜58年頃の話のようなので、三億円事件とは10年ほど時期がずれますが、2ストの白バイがなかったわけではないようです。

ちなみにウィキペディアの情報によると、白バイに採用された2ストローク車はスズキGT750が最後とのことです(1972-78年)。

関心を持つきっかけを!

この三億円事件をめぐっては、警察の捜査以外にも多くの検証・考察がされており、書籍やドキュメンタリーTV番組、映画などがたくさんあります。
これを機会に少しだけ深く触れてみたくなりました。

人間、何かのきっかけでちょっと関心を持つと、今まで見逃していたことにも気付くようになるんだなとあらためて思います。

これからも、オートバイの歴史探求を通じて、バイクに乗っていない人でもバイクに関心を持ってもらえる「きっかけ」になるような話をご紹介していきたいと思います。

【関連リンク】


昭和33年の多摩川スピードウェイ

新年ということで、今年2018年から、40、50、60……年前にはどんなことがあったのかを改めて調べています。

そのうちの60年前、1958年(昭和33年)のできごと。
バイク関係に限れば、MCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)の設立と第1回全日本クラブマンレース開催、ホンダスーパーカブ(C100)の発売などがあります。

さて、そんな昭和33年の古い雑誌をパラパラとめくっていたところ、思いがけずこんな記事に出くわしました。

「オートバイ」1958年12月号の記事です。

「オートバイ」1958年12月号より
「オートバイ」1958年12月号より

「オートバイの祭典」
「第1回日米対抗モーターサイクルレース ハイ・ライト」
のタイトル。
そして右ページのダートコースに背景の橋梁。
もしや、と本文を見てみると、

「全日本モーターサイクルレース会主催による第一回日米対抗モーターサイクルレースが、10月25日、多摩川の東急スピードウェイで行われた。」

これにはなかなか驚きました。

「オートバイ」1958年12月号より
「オートバイ」1958年12月号より

多摩川スピードウェイの末期

記事中の「多摩川の東急スピードウェイ」とは多摩川スピードウェイのこと。

実は多摩川スピードウェイの終焉時期については、「営業終了」とか「コース閉鎖」といった明確な期日がなく、いったいいつまでコースとして使用されたかがはっきりしません。

1955年の航空写真(地図・空中写真閲覧サービス)を見ると、既にオーバルコースの内側上流側半分は自動車練習場が作られています。

国土地理院の空中写真(1955年)
出典:国土地理院の空中写真(1955年)

昭和30年代以降は、この自動車練習場の一部として使われることになりレーシングコースとして使うことはもうなかったのかと思っていました。

そして、この記事が目に飛び込んできたのです。

昭和33年(1958年)10月25、26日に日米対抗モーターサイクルレースが行われていました。
コース全周を使ったのか一部だったのかはわかりませんが、あの場所で行われていたのは間違いないようです。
(火焔くぐりの向こうに階段状の観客席が見えます)

「オートバイ」1958年12月号より

当日の天候は雨で、翌日の26日のレースは12月に延期になったと記事にはありますので、その記事も探してみようと思います。