二輪文化ブログ
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夏休みの自由研究に「日本のオートバイの歴史」はいかがでしょう?

なかなか梅雨の明けない今年ですが、多くの小中学校は夏休みに入った頃でしょうか。

さて、バイクに興味のある少年少女のみなさん、そしてお父さんお母さん、夏休みの自由研究に「日本のオートバイの歴史」なんていうのはいかがでしょうか?

その際は二輪文化を伝える会の年表を参考にしてね。
あとは自分で調べてみよう。コピペはだめだぞ(^_-)

二輪文化を伝える会:日本のオートバイ年表

なんやかんやで手元に集まった資料
なんやかんやで手元に集まった資料(一部思い出の品ありw)


明治29年に初めてオートバイ(自動自転車)が日本の人々の前に姿を見せてから、オートバイを欧米から輸入販売する人がいたり、自分たちの手でオートバイを作ろうとする人が現れたり、競馬場でダートトラックレースをやる人たちがいたり。

そして国産のオートバイが市販されるようになります。
カワサキの前身とも言えるメグロも戦前から存在したメーカーでした。
しかし、世の中は戦時体制へ・・・。

敗戦の焼け野原から、復興の旗印、庶民の足として再び注目されるオートバイ。
ラビットやシルバーピジョンといったスクーターが現れ、バイクモーターという自転車に取り付ける小型エンジンが大ヒット。
ホンダが産声を上げるのもこの頃。

昭和20年代の後半には100社以上のメーカーがあったと言われています。
その中で、作る人、売る人、乗る人、様々な人達がこの乗り物に情熱を注ぎ込んでいました。
スズキやヤマハが織機や楽器製造の本業からオートバイ製造に乗り出したのはこの頃です。

海外メーカーに比べ劣っていた国内メーカーの技術も、海外進出も視野に入れ、さらにレースというフィールドで急速に進歩。
浅間火山レースなど伝説のレースもそんな時期に開催されたのでした。

やがてホンダを皮切りに世界へ飛び出すと、次々に海外メーカーを打ち破るようになり、ついには日本製のオートバイは世界を席捲するに至ります。

と同時に、敗れ去った者達もたくさんいたことになります。
100社以上存在したメーカーは、昭和40年代には4メーカーへ。

技術競争に敗れ、はたまた販売競争に敗れ、好きで取り組んでいたオートバイ作りを断念せざるを得なくとも、競合他社へ移籍したり、立場を変えて関わり続けたりしながら、その情熱はライバルや後輩たちへ連綿と受け継がれてきたわけです。

現在の4メーカーの歴史はもちろん、消え去った多くのメーカーについてや、その創業者・エンジニア、レースで活躍し名を挙げた人たち、青春時代をオートバイとともに冒険してきた者の姿を探ってみるのも面白いと思います。

あれ?
夏休みの自由研究の話から、すっかり二輪文化を伝える会の話にすり替わってしまいました。

これからも自由研究がんばります (^^)v


こんな資料を持っているとか、古い雑誌を持っている、などありましたらお知らせいただけると助かります。
特に、人に関するもの(インタビュー記事のような)があったら大感激です。
よろしくお願いします!

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